昨日で田舎に暮らして満19年になりました。まあ田舎といっても程度はいろいろあります。東京から見ればどこだってすべて「田舎」なんでしょうし、本当の僻地からみれば私の住んできた場所は田舎には入らないかもしれません。ですから、ここでは田舎とは大都会に対する地方と言うくらいの意味だとお考え下さい。
私は東京に生まれて1987年の8月まで30年以上を過し、それから2000年9月まで13年間を熊本市、その後今日まで東広島市(広島県)で暮らしています。都市の規模から言えば、東広島市が圧倒的に小さく、実際にいちばん「田舎度」が高いです。しかし今でも実家は東京ですし、ほどよく都会と田舎を知っていると自負しています。都会には都会のよさがありますし、田舎もしかり。それぞれに欠点もあります。それぞれに特徴があるということは間違いありません。
よく、「田舎は刺激が少ない」という人がいます。私が考えるに、今の通信、メディアが発達している時代、ニュースに乗り遅れるということはないのですが、(私が思いつくことで)決定的に違うのは演劇、音楽公演、映画、展覧会、大書店ではないでしょうか。たとえば私の関心のある音楽を例にすると、東京にはプロのオーケストラだけで5つ以上(正確にはわからない)あり、それぞれが月に1、2回ずつ定期演奏会をしているわけです。その他にも国内外のプロ、アマのオーケストラは毎日のように演奏会をしている・・・。一方、熊本市にはプロのオーケストラはありませんし、まして東広島市にはあるはずもない。隣の広島市にかろうじてプロのオーケストラが一つあるだけです。年間の演奏会の数は圧倒的に違います。
いくら演奏会があっても一人が行ける数には限りがある、だから多くたって仕方がない、ということを言う人もいますが、それは違います。地方では演奏曲目数に絶対的な違いがありますし、そのうえ演奏のプログラムが偏っている傾向があるのです。東京では地方では演奏されたこともないような曲でも聞こうと思えば聞けるのです。その「可能性」が存在していることが大きな違いだと思います。しかし、一方では全くそれらのメリットを利用しない人もいるわけで、それらの人にとってはこのような大都会ならではのメリットは意味がないでしょう。演奏会を例に出しましたが、映画でも演劇でも事情は同じようなものです。刺激は自分で積極的に見つけ、経験してこそ真の刺激となるのであって、それ以外の、外から勝手にやってくる「刺激」は単に人の心を苛立たせる「公害」にすぎません。
大都会に住んでいても多くの人がその本当のメリットを利用していない可能性があると思いますが、これは地方に住んでいる人にも言えることです。前にも書きましたが、たとえば「自宅の横の草地で毎日キジが鳴く」、「ヒバリがピーチク鳴きながらホバリングしている」と言っても、「そんなことが面白い?」という感覚。それがどんなに素晴らしいことかという感覚の欠如。夏の夜明け、山全体がシャンシャンシャン・・・と鈴の音のごとく(それもとびっきりの美音)ヒグラシの大合唱が鳴り響く。美しい山並みの風景だってよいでしょう。経験したものでなければ分からないこれらの感激を現地に住みながら見過ごしている限り、「田舎がよい」というのは、都会で「電車がすぐ来てよい」と同じ次元にとどまっていると言わざるを得ません。
何も、地方は自然だけが豊富なわけではありません。生まれ育った土地と異る場所では、言葉はもとより、風習や風俗が微妙に異るのです。それらを知ることも大きな刺激、楽しみになっています。お盆の風習も熊本と広島では全く違います(広島のコンビニで棒に付いた金ピカの飾り物が売られているのを初めて目にしたときに驚き!)。私が(熊本でもそうでしたが)東広島市に来て感じるのは毎日が発見の連続ということです。地方が、立派な道路をつくり、新幹線を誘致し、空港を造れば大都会になれるか、と思うのは大きな誤解。都会にもなれず、田舎を捨てれば、残るものは何もないはずです。
あなたは大都会でどんな「刺激」をうけているのでしょうか?あなたは田舎でどんな感動を手にしていますか?
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