ユダ福音書
「原典ユダの福音書」(日経ナショナル・ジオグラフィック社1800円+税、2006年)を読みました。1978年頃にエジプトでパピルスに書かれたものが発見され、それが保存方法などに無理解な古美術商達の手を点々と渡り、取り返しのつかない傷みを受けた後に、2001年から復元と翻訳が始まったものです。この本はその初めての復元翻訳全文と解説を本にしたものです。ここで言うユダとは、あのキリストを裏切るイスカリオテのユダのことです。
さて、旧約聖書、新約聖書も全文を通して読んだことがなく、勿論初期のキリスト教についての知識もなく、解説を読んでもよく分からない事ばかりだったのですが、この本を読んで知ったことは多く、かなりショッキングでした。
まず、「福音書」ですが、新約聖書に収められた、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書が有名ですが、実はこれらだけではなく、紀元200年頃にはさまざまな福音書があったのです。その中から正統派キリスト教(要するに現在のキリスト教の元になる教義を信奉する派。他派を押えて主流派となり、それ以外は異端とされることになった)が自分の教義に合う福音書だけを認めてセットにしたのが新約聖書の福音書で、結局異端とされた派の教義に添った他のさまざまな福音書はすべて破棄、淘汰され、今回見つかったユダの福音書もその一つであるのです。
このユダの福音書には、ユダの扱いは現在残っている新約聖書のユダとは全く異り、キリストが何者であるかという「正体」を知っていたのは弟子の中でユダだけであって、キリストの逮捕・処刑という重要な出来事を成就させる言わば手伝いのために「裏切り」をしたことが書かれています。これは我々が知っているユダとは正反対の扱いです。
このユダの福音書を信奉していたのはグノーシス派、あるいはセツ派と言われる古代キリスト教の一派(正統派キリスト教、あるいはその流れをくむ現代のキリスト教から見れば異端)で、彼らの教義は現代の我々から見ると信じられないくらいいわゆる「キリスト教」と異なっています。
現在キリスト教といえば一神教(この世の創造主の神は絶対)で、キリストの受難と復活の意味というのはローマカトリック、ギリシャ正教・東方教会、イギリス国教会、プロテスタント各派をはじめほとんどの現行宗派では共通だと思うのですが、原キリスト教の時代では決してそうではなかったということです。驚いたことにグノーシス派の教義では、この世の創造主の神は絶対ではなく、むしろこのようなゆがんだ世界を造った「出来の悪い、低級な」神であって、さらにそのはるかな高みには、名前を付けて呼ぶことすらはばかれる、絶対で永遠な「あるもの」があるというのです(これこそが神だと言いたくなりますが、「神」と呼ぶことすら誤りであるようです)。さらにキリストはこの「あるもの」の「世界」から来ているのであって、低級な創造神とは関係がなく(当然「三位一体」など問題外)、その「世界」に戻ることが受難であって、復活などはあろうはずがないというのです。
私の乏しい知識では、プラトン哲学:この世のものがすべてうつろうように見えるのは、ある絶対なもの(イデア)の影を見ているからで、様々なもの(パソコンでも、人でも、車でもいい)に対する絶対なもの(イデア)が存在する・・・に近い考え方なのかも知れません。実際その他の面でも当時のギリシャ哲学の影響が見られるそうです。
現行のキリスト教とは異なる教えがいくつも存在していて、その中から現在のキリスト教につながる教義が勝って行った(何回か開催された公会議で決められた)・・・というのは世界史で習ったことで知っていたのですが、そこで競った宗派の考えがこれほどまでに(もはや同じキリスト教と言えないほど)異なっていたということは私にはかなりショッキングでした。もしもグノーシス派が正統派の地位を得ていたら、その後のキリスト教世界、さらに政治も芸術も思想も、すべて違ったものになったのでしょう。

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