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May 01, 2009

「自然との共生」というウソ

高橋 敬一 著『「自然との共生」というウソ』(祥伝社新書152 ISBN978-4-396-11152-6、760円+税)を読みました。目次はOhrwurm さんのブログ記事をご覧頂くとして、要するに、里山の保全運動、最近流行のエコブームなどの本質は何かについての考察です。矛先はオオムラサキやホタル、ギフチョウの保護運動や外来種問題にも向けられていて、著者はそれらの基にはすべて「郷愁」があると言い、さらには人類の誕生以来我々全員のDNAに刻まれているソフトウェアによって無意識に動かされていること、里山の保全運動やエコ運動なども所詮われわれのDNA=本能に従った動きしかできないこと。言い換えれば、DNAという「釈迦の手のひら」の上で動いているに過ぎないことが述べられています。

私がかねてから各種の自然保護運動、エコ運動に関してある種の疑問や不自然さを感じていた原因が何処にあるのか、ということについてこの本は明快に答えていると思います。つまり(広い意味で)「郷愁」と言えるような言葉ですべて説明がつき、矛盾はないように思えるのです。これは先日ここに書いた言葉の問題、つまり新語や自分の慣れ親しんだ文法に反する言葉遣いに対する不快感もこのことで説明がつくと思います。その意味でこの本に共感する点は非常に多いのです。

結局人は「自分が」経験し、馴染んだ環境だけを守ろうとしている、ということです。「正しい日本語」、「すばらしい自然」と言っても、それは昭和初期の日本語でもないし、自分が見たこともない大昔の原始林でもないのです。自分が経験したことのない、生まれる前の人々の「日本語」にも、生まれる以前の環境にも関心がないということです。(注:たとえば「里山の自然」と言いますが、里山はさんざん人手が入った、特殊な人工的環境に他ならず、「里山を取り戻そう」ということが、自分の経験した環境への懐古である典型例)

ところで、著者の考察に賛同をし、長年の疑問に対する答えが得られてスッキリする一方で、やりきれない虚無感、無力感、暗さを感じたことも指摘しておきたいと思います。著者は、各種の自然保護運動の本質が「郷愁」であり、その奥にはDNA=本能がいることを指摘し、そのことを知った上で自然保護運動を進め、エコ運動をすることは「かまわない」し、「反対もしない」と言います。しかし、この本を読んだ以上、自然保護運動の裏側(パンドラの箱を開けた?)を見てしまい、モチベーションは下がるところまで下がってしまったわけで、そのような状況でなお自然保護を叫ぶことは滑稽でもあり、この本の著者高橋氏に鼻で「笑われる」ような気がします。「自然保護運動」などと大げさに言わなくても、「ああ、この風景は緑が多くて綺麗だ。失いたくない」という感情すら否定されたように思えてなりません。

考えてみると、芸術作品に盛り込まれた「美」というものも上で言う広い意味での「郷愁」に基づくもの、あるいはDNAに沿ったものなのだと思います。「美=永遠に不滅なもの」を求めることは「郷愁」に他ならないからです。この本を読んで私が感じた空しさは、言わば「ロミオとジュリエット」「トリスタンとイゾルデ(イズー)」に感動しているところに、単にこれらの物語が、DNAの目指す繁殖に基づく男女の恋愛の話だと言われたような気がするからかもしれません。

結局開き直って、(「地球のため」などと言わずに)「これが失われると『自分が』寂しいから」という理由であれば、オオムラサキを保護しても、イシガキニイニイを保護しても構わないということでしょう。もはや個人的趣味みたいなものですから、他人に薦めたり、まして強制するような絶対的価値はないということです。

パンドラの箱を開けてみたい方、日頃から自然保護やエコに疑問を感じている方にはお薦めの一冊です。尚、この本は「地球温暖化はウソだ」というような、現在の状況を検証する本ではありません。

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